「趣蔵 神代ふれあい館」が長崎県の「長崎県まちづくり景観資産」に登録されました。
登録申請時に提出した建物概要資料(雲仙市HP掲載)に沿って、建物の概要を説明します。
---申請文---
<沿革>
趣蔵 神代ふれあい館(旧本田酒店)は雲仙市国見町神代川⻄地区の東の端に位置し、神代町で代々営まれてきた造り酒屋である。「神代鶴」の醸造元であり、昭和 23 年発⾏の神代村沿革史によると、終戦直後の川⻄地区における酒屋は 1店舗で、本田家が平成初期まで営業を続けたという。川東地区に「男山」という酒屋があり、「神代鶴」は後にできたので新酒屋と呼ばれていた。
昭和 21 年に結成された神代商⼯会の会⻑を本田家の当主が務めており、地域の名士であったことがうかがわれる。
建築年代は不明であるが、現所有者の⺟(明治 18 年生)らが一時生活していたということより、明治期の建築と推測される。
<意匠と特性>
道路に⾯して間⼝5間半、奥⾏き8間、⽊造2階建て妻⼊り、屋根桟⽡葺⼊⺟屋造の主屋が建ち、直交して平屋建ての玄関、座敷棟が東に位置する。外壁は大壁造白漆喰仕上で、軒裏まで漆喰を塗りこめた居蔵造となっており、⽊造家屋が隣接する商店街の町並みにおいて、防火に備えられていたことが分かる。
平⾯は左寄りに通り土間があり、右側はミセ空間として座敷になっている。現状は間⼝いっぱいに土間が広がっているが、以前は8畳の座敷となっていたという。建物中ほどの6畳間は番台として使われており、土間部分でお酒の量り売りや立ち飲みが⾏われていたようだ。
ミセの右手には来客用の式台式玄関が設けられ、奥に 10 畳の座敷が2間配されている。座敷の南側には縁側を介して池泉式庭園が広がるが、これは近接する神代地区の武家屋敷群でよく見られる庭園様式であり、通りに平⾏して走る水路から水を引いていたという。水路は昭和 40 年頃に道路の整備を⾏った際に暗渠となっている。
かつては屋敷奥に通り土間を介して居住部が設けられ、台所、炊事場および厠等の生活空間があったと推測され、敷地北側に蔵もあったというが現存していない。
正⾯⼊り⼝は現在両引分け⽊製格⼦⼾となっているが、聞き取りによると元々は格⼦に⼩さなくぐり⼾が設けられていたということで、防犯性の⾼い作りになっていた。
また、2階道路側の窓についても、現在は⽊格⼦が取り付けられているが、元は鉄製の火除け⼾がついていたということである。
意匠的な特徴として、約1尺角のタブノキの柱が1階土間に使われており、本田家の繁栄ぶりを表している。ミセ及び2階座敷には⻑押は設けられず簡素なつくりとなっている一方で、1階 10 畳座敷には⻑押、組⼦や彫刻の欄間が設けられ格式の⾼い空間になっている。
特に座敷の床の間には床脇まで亘って1枚の床板が設けられ、床脇の違い棚は⻄楼棚が変型したような形式となり、他であまり見られない希少なものであると言えるだろう。
【出典=令和3年度雲仙市神代地区活性化支援業務報告書より】
---以下、写真を含めて説明します---
<沿革>
趣蔵 神代ふれあい館(旧本田酒店)は雲仙市国見町神代川⻄地区の東の端に位置し、神代町で代々営まれてきた造り酒屋である。「神代鶴」の醸造元であり、昭和 23 年発⾏の神代村沿革史によると、終戦直後の川⻄地区における酒屋は 1店舗で、本田家が平成初期まで営業を続けたという。
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川東地区に「男山」という酒屋があり、「神代鶴」は後にできたので新酒屋と呼ばれていた。
昭和 21 年に結成された神代商⼯会の会⻑を本田家の当主が務めており、地域の名士であったことがうかがわれる。
建築年代は不明であるが、現所有者の⺟(明治 18 年生)らが一時生活していたということより、明治期の建築と推測される。
<意匠と特性>
道路に⾯して間⼝5間半、奥⾏き8間、⽊造2階建て妻⼊り、屋根桟⽡葺⼊⺟屋造の主屋が建ち、直交して平屋建ての玄関、座敷棟が東に位置する。
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外壁は大壁造白漆喰仕上で、軒裏まで漆喰を塗りこめた居蔵造となっており、⽊造家屋が隣接する商店街の町並みにおいて、防火に備えられていたことが分かる。
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平⾯は左寄りに通り土間があり、右側はミセ空間として座敷になっている。現状は間⼝いっぱいに土間が広がっているが、以前は8畳の座敷となっていたという。建物中ほどの6畳間は番台として使われており、土間部分でお酒の量り売りや立ち飲みが⾏われていたようだ。
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ミセの右手には来客用の式台式玄関が設けられ、奥に 10 畳の座敷が2間配されている。
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座敷の南側には縁側を介して池泉式庭園が広がるが、これは近接する神代地区の武家屋敷群でよく見られる庭園様式であり、通りに平⾏して走る水路から水を引いていたという。水路は昭和 40 年頃に道路の整備を⾏った際に暗渠となっている。
かつては屋敷奥に通り土間を介して居住部が設けられ、台所、炊事場および厠等の生活空間があったと推測され、敷地北側に蔵もあったというが現存していない。
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正⾯⼊り⼝は現在両引分け⽊製格⼦⼾となっているが、聞き取りによると元々は格⼦に⼩さなくぐり⼾が設けられていたということで、防犯性の⾼い作りになっていた。
また、2階道路側の窓についても、現在は⽊格⼦が取り付けられているが、元は鉄製の火除け⼾がついていたということである。
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意匠的な特徴として、約1尺角のタブノキの柱が1階土間に使われており、本田家の繁栄ぶりを表している。ミセ及び2階座敷には⻑押は設けられず簡素なつくりとなっている一方で、
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1階 10 畳座敷には⻑押、組⼦や彫刻の欄間が設けられ格式の⾼い空間になっている。
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特に座敷の床の間には床脇まで亘って1枚の床板が設けられ、床脇の違い棚は⻄楼棚が変型したような形式となり、他であまり見られない希少なものであると言えるだろう。
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【出典=令和3年度雲仙市神代地区活性化支援業務報告書より】